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映画・ゲーム考察

映画『スティーブ・ジョブズ』(2015)

映画『スティーブ・ジョブズ』(2015)は、脚本構成の基本術と言われる「三幕構成」に、ジョブズの人生における3つの転換点「1984年」「1988年」「1998年」を重ね合わせたものだ。

それぞれ1984年はMacintosh、1988年はNeXTcube、1998年はiMacの、製品発表会が行われた年である。

史実によれば、Macintoshが後世に残した影響力は絶大であるが、NeXTcubeは商品としての売れ行きが不調で、ビジネスマンとしてのジョブズの顔にとっては失敗であった。だが彼はiMacと共にカムバックを果たし、その後のiPod、そしてiPhoneなどの成功は現在見ての通りである。

 

しかしながら、映画が描くことを目的としたのは、このようなApple製品の成功/失敗と紐づけられたジョブズの挫折と栄光ではない。ビジネスマンとしての表の顔は、映画の主眼にはない。

というのも映画が描いたのはジョブズにとっての「表舞台」ではなく、彼の成功の影にあった、人格的側面や、仲間との関係、そして家族との関係だ。そのことをより明確に伝えるため、映画の舞台となったのは、文字通りの製品発表の「舞台裏」だ。3つの製品それぞれの発表直前、カーテンの裏で起こっていた、数十分間の出来事を創作して映画にしたのだ。

そこでは彼の製品へのこだわり/執着の裏返しでもある人格的欠陥や、仕事仲間・家族との確執、そして最終的には和解が描かれる。

 

このような人間関係もまた、三幕構成の「起伏」となって、製品発表の成功/失敗が、人間関係の変化に重ね合わせられながら、物語は進行する。

 

Appleの顔」として、あるいはビジネスマンとして、すなわち「表の顔」におけるジョブズの人生の浮き沈みは新聞やニュースを通してすでに周知の事実である。けれども断片的に与えられてきたジョブズの人格にまつわるエピソードや、家族との関係にまつわるエピソードといった「内幕」をひとつに統合し、1つの筋につらなる浮き沈みとして表象することにドラマ性が生まれる。

というのも、もはや時代は「表の顔」では満足も納得もしないからだ。サクセスストーリーを諦めた時代に、批判的視点なくては観客は納得しない。かといって批判的視点ばかり取り上げてもドラマとしての尊さは生まれない。そこにフィクションの力が発揮される。

 

 

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2011年、ジョブズの死去後、2013年にアシュトン・カッチャーが主演した同名映画『スティーブ・ジョブズ』が公開されているが、2013年版は評判が良くない。

2015年版はマイケル・ファスベンダー主演であり、監督ダニー・ボイル、脚本(脚色)アーロン・ソーキンと、力の入った布陣。実際、2015-16年にかけての賞レースに名乗りをあげた。

特にアーロン・ソーキンは、facebookの創業者マーク・ザッカーバーグを主人公として描いた伝記映画『ソーシャル・ネットワーク』の脚本家であり、批評家をして「21世紀の『市民ケーン』」と言わしめた手腕を持つ。

本作と『ソーシャル・ネットワーク』の共通点といえば、IT・テクノロジー分野が舞台であるということはもちろんであるが、業績に注目の集まる主人公の複雑な人格、特に「嫌なやつ」としての側面を描きつつ、彼(ら)の根源的な欲求や衝動(リビドー/原型)に遡って描いた部分である。強く成功を追い求めながらも、人間関係が希薄でどこか空虚、そして満たされることのない私生活の面に、観客は自己との通底を見出す。

これは『市民ケーン』(1941)が、新聞王として莫大な富を得ながらも、女との幸せな生活を送ること能わず、孤独に死んでいったチャールズ・フォスター・ケーンが遺した、「バラのつぼみ」という言葉に集約される、「幼い頃の思い出」「両親との別離」「孤児としての少年時代」という過去によって、満たされることなき愛を追い求めたというささやかなロマンチズムを暗示する点と似ている。

ソーシャル・ネットワーク』が『市民ケーン』との類似点を指摘されるのは「億万長者の孤独」という主題のみならず、どちらの作品も現代と過去を頻繁に行き来しながら映画が進行していくダイナミックな時間構成を採用しているからであるが、2015年版『スティーブ・ジョブズ』についてもただ3つのターニングポイントのみを取り出し、その数時間に、主人公の生涯を集約させようという大胆さがある。

 

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ティーブ・・ジョブズは存命時点ですでに伝説的な人物として崇められていたが、スマートフォン黎明期においてiPhoneの発売によってAppleが覇権をほとんど握ろうとしていた(ブランドを確立していた)2011年における死は、大きな話題性を以て報じられた。

 

スティーブ・ジョブズ信奉者たちと、それを風刺的に皮肉る人たちとの争いが、ジョブズの仕掛けたまさにスマートフォン上で行われたことは皮肉である。

 

本作の脚本家に求められたのは、ジョブズの信奉者たちを「必ず映画を観てくれるターゲット層」として見据えながらも、彼を神格化することなく、人格的な欠点やプライベート上の問題点を指摘しながら、なおかつ映画としてドラマチックなエンディングへと到達することであったろう。

 

現代では、たとえ偉大な業績を残した人物であっても、神格化し、ファンタジーのように都合の良い部分だけを見ることは許されない。功績とその罪を分けて考えることは、一般市民にも要求される。(元から史学者たちはそうしてきたわけであるが。)

 

インターネットやSNSによって、新聞紙や司法が歴史的に担ってきた役割・機能が、一般市民にも分譲された。特に大衆紙・週刊誌は、「醜聞を欲する」という人間の悪い部分につけ込んだ商売だが、スマホSNSはあまりに手軽なインフラであるがゆえに、人間の悪い部分を奥底から引き出し、拡張してしまった。そのため、「特定の人物(偉人)を神格化せず、その功罪を客観的・公平的にながめる」という考え方はあっても、素人が安易に行えてしまう「批判的であろうとする」姿勢ばかりが人口に膾炙し、根付いてしまいつつあるようにも思える。

 

スティーブ・ジョブズ』(2015) は、エンディングにおける家族との和解において、そのフィクション性が過剰であるようにも思える(あれは願望に過ぎない)が、しかし、「著名人の功績を精確に同定し、どの業績が誰のものであるか確定する」「偉人の訓話ばかりを捏造せず、批判的な思考で事実に当たる」という、新しい伝記(映画)の標準において一定のレベルを示したのではないだろうか。たとえそのことが、人々からドラマへの幻想を奪い去ってしまうとしても、だ。少なくとも家族との関係や親子関係について、現実に活かされるある種の教訓、反面教師の姿がそこにはあるだろう。