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映画・ゲーム考察

ゲーム雑記#4 -2/6[2024]

LIS2は、LIS1やBtSで匂わされた「旅愁」を実行した物語でもあり、思春期特有の(?)「どこか遠くへ行きたい」「こんなところ飛び出したい」を叶えた物語でもある。(もちろん、ショーンにとっては不本意な旅ながら)

 

LIS1やBtSはすでに、思春期の物語に我々プレイヤーを引き込むことによって「どこか遠くへ」連れて行ってくれている。(そして我々の憧れる地、世界の果ては、そこに住む人にとっては閉塞感のある場所であったりもする)※1

 

さて、ショーンは実質的に家出をした格好だけども、現実問題としてお金に困るし、困った時に助けてくれるのはいつでも大人。必ず、どの章でも親切な人、大人が助けてくれる。なので結局「家出したって甘くはないんだよ」と、親のありがたみを教えてくれる話でもある。※2

 

あまり社会の歯車という言葉は使いたくないけれど、社会構造の一端、分業制の一端をいずれは担うんだよ、それともそんな社会からは君は抜け出したいかい?(カレンのように)という分岐もどこかこのゲームでは念頭に置かれている気がする。

 

 

※1 旅行者としてその地を訪れるのと、実際にその地で生活するのは別。そんな意味で、例えばLIS2のEp.3に登場するスウェーデンカップルなんかは、先進的な北欧の国から観光気分で農業体験にやってきているわけで、周囲の「貧困ゆえにそこしかない」従事者と対比的だった。ちょっとチクっとする

 

※2 LIS1やBtSはかなり子供の味方で(子供の味方としてサポーティブに)物語を描いていたけど、LIS2は子供と大人両方の立場をバランス良く盛り込んでいるから、さすが兄(親)と弟(子)の物語だよなあという感じはする

 

(ちょうど小旅行ついでに電車に乗っていたから気づいた/思い出したことを書いた)【2/5記録】

 

https://x.com/4fraid_video/status/1753957126157054229?s=46&t=f08eI0ZKof8UZTVXOuUzyw

 

 

 

ゲーム雑記#3 -1/31 [2024]

LIFE IS STRANGE 2は素晴らしい体験だった. 最高だった!

 

命の力強さを取り戻して漲ったような気分になる。自己と家族のつながりにかんして、記憶を反芻する深い内省的体験をもたらす。自己と家族・世代・社会とのつながりについて、つまり業について考察する端緒を与えてくれる。

 


プレイヤーがショーンであることについて、そして母カレンについて、どこかに書いたけれど、ダニエルについて言えば「移民であり、かつスーパーパワーを持つ」という『マン・オブ・スティール』(2013)と同様の構図を以って、フランスという外部から、アメリカという超大国の力を、そして英雄神話を再定義する試みであるようにも思えた.

 


もっとも素晴らしいと思うのは、トラウマを抱えた人間が語りたくても語りがたい「被差別体験」、すなわち、社会に生ずるマクロな分断・対立のきっかけとなるミクロな衝突をそのまま捉えて物語にしたことだと思う。多くの人々にとってこのゲームは、あまりに多くのことを代わりに世界中へ届けてくれる。

 


ショーンにはスーパーパワーがなくても、理不尽に耐える不屈の精神と、倫理観・道徳・思いやりに基づく判断力がある。それがダニエルに受け継がれて、内面的に成熟した本当のスーパーヒーローが生まれたらいいな…(そんなアメリカという国家への願いが込められているようにも思えた)

 

 

 

こんなにミクロで、プライベートで、個人的な物語でマクロを語れるなんて!

 

 

 

このゲームは、多くの人が「これは私の物語だ」と感じるので、大切にしたい物語だ。

LIFE IS STRANGE 2

LIFE IS STRANGE 2 は、ヒスパニックの血が流れる2人のアメリカ人兄弟の逃避行を描くロードムービーである。

 


シアトルに住むダニエルとショーンの兄弟は、「シアトル銃撃事件」がきっかけで父を失い、逃亡生活を送ることになる。

 


2人はメキシコにある父の故郷「プエルト・ロボス」を目指しながら、生活のすべを探しつつ、ダニエルに発現した謎の「スーパーパワー」をコントロールする方法を探る。サバイバルの物語である。

 


本作は、ヒスパニック系の兄弟が、アメリカ人による不当な差別や偏見を経験する物語でもあり、道中で親切な人々との出会いと別れの物語でもある。

 


全5章からなる物語の各章で、主人公(プレイヤー)は衣食住を確保しながら、南下しつつ、ダニエルの「パワー」をコントルールし、不当な差別を経験しながらも、親切な人々の助けを借りつつ、しばしば囚われの身になり、脱出・解放の道を探らねばならない。

 

 

 

まず第一に、ショーンとダニエルはアメリカ国籍を持つ正式なアメリカ国民である。法にしたがうべき存在であり、法によって守られるべき存在でもある。

物語冒頭時点で、ショーンは道徳や倫理観を備えたふつうの高校生(ティーンエイジャー)であり、違法行為に手を染めたり、悪意を持って他者に接したりする攻撃的・反社会的な性格をしていることはない。そして兄弟の父親のエステバンも、(少なくとも現在は)完全に合法的な職業で生計を立てており、良識的なアメリカ市民である。※5

 


しかし、広大で無人アメリカ大陸を旅するショーンは、都市を離れ長い逃亡生活を送っており、元々不当にシアトルを追い出される形になったこともあって、利己的・攻撃的にもなり得る。※1シアトル銃撃事件の詳細→後述

 


一方弟のダニエルは純粋無垢で、旅の最初は状況が把握できていなかったこともあり、ショーンは危険な「パワー」をコントロールする方法をサポートするだけではなく、ダニエルの手本となるような行動を示す必要がある。

 


したがって、不当な差別を経験し、無法地帯にありながらもショーンがせめて「道徳的」「倫理的」「法令遵守」のいずれかであろうとするのは、単に「自分が無罪であること」「アメリカの法を守る国民であること」を示すシアトルの名残であるだけでなく、ダニエルにとっての基準となるためでもある。

※ 2「フィクション上の都合」と「もうどうでも良いや」と「メキシコに対する暗黙のイメージ(無法地帯/自由)」

 

 

 

※1「シアトル銃撃事件」について: ショーンがダニエルを連れて逃げたのは、白人による差別意識を体感したからである。警官が、ヒスパニック系である自分たちを悪者/脅威と決めつけて銃を向けてきた。話を聞くこともなく。それゆえ、「このまま警察に捕まれば自分たちが悪者にされるに違いない」という直感・本能的な危機意識から、ダニエルを連れて逃亡した。もちろん「状況証拠としてショーンの目の前に白人の少年が倒れていた※3こと」そして「ダニエルの能力を突発的に目の当たりにしてしまい、ダニエルを守るために言い訳できなかったこと」も判断材料にはあったものと思われる。後者については、「スーパーパワーをどう扱うか」というのは全くアメリカ側(国家側)の倫理観の問題であり、発現も完全に突発的なものだったので、全くショーンに責任はない。また、ショーンの目の前に少年が倒れていたのも、元々は少年がダニエルに絡んできたからで、ショーンは普段からこの隣人の少年によって差別的な言動を浴びせられてきた。確かに押し倒したことには問題があったかもしれないが、隣人はショーンとダニエルのいるディアス家の敷地内にまで踏み込んできていた。そしてなんら話を聞くことなく、一方的にヒスパニック系の国民を悪者/脅威だと決めつけて、丸腰の父親を撃ったのは完全に新人警官の判断ミスである。(おそらく警察の内部規約/教則にもしたがっていなかったのではないか)訓練ミスである。

 白人少年にも差別的な言動の背後に心理的要因があったろう(情状酌量の余地がどの程度であるかはさておき、多少の社会的影響、すなわち家庭環境(経済状況・親の言動)・学校環境(友人との関係)・新聞やテレビ、SNSなどのメディアによる影響)し、新人警官においても状況証拠はどうあれ、ヒスパニックに対する潜入感はあったかもしれない。実際、例えばアメリカ国内において・ワシントン州内において・シアトル市内において・地区において、ヒスパニック系による犯罪率が白人と比較してなどから高いという統計データが実際に存在していたかもしれない。しかしだからと言って、ヒスパニックが関係する「疑わしき」状況において、話を聞かずに潜入感に基づいて行動していると、個人レベルにおけるヒスパニック系による反感を生み、それがマクロな「白人社会 対 ヒスパニック」の対立・分断へと肥大化しかねない。実際メディアで取り上げられている対立はこのようなマクロなものであるが、LIFE IS STRANGE2は、このようなマクロな分断につながる個人間レベルでのミクロな「偏見・差別とそれに対する反感の発生」をうまくそのまま物語において映像化することに成功している。ショーンが差別的言動を受けてもなお良識ある振る舞いを心がけるのは、あるいは「因果応報(目には目を)」という私的制裁を個人の判断で行うことなく、シアトルにいたままの振る舞いを心がけようとするのは(もちろん、プレイヤーがそう望めば、だが)、差別的な言動に対して反感を生じ、自分までもが反白人社会・反アメリカ社会のマクロな運動に与してしまっては、相手の反感も強めるばかりで、結局普段のミクロな対人関係において余計に厳しい偏見や攻撃に晒されるだけだと知ってのことでもある。※4

 


※3 ショーンの押し倒した少年の生死や容体については、ショーンのためにも触れられていない。(開発者側の配慮として)

 

 

 

そういった状況下でも、旅の途中で立ちはだかる障壁を払い除けるため、ダニエルと信頼関係を構築しながら、ダニエルの力を借りてスーパーパワーを行使することは、兄弟に良い結末をもたらすという意味で、物語そのもの(ないし開発者)の罰するところではない。

 

 

 

※4 ショーンは旅の過程で、ダニエルの盾となって差別的な言動や理不尽な暴力まで一身に受けている。2人で行動していない場面にあっても、ショーンが暴力を受けても耐えるのはダニエルと共にありたいと願うからだ。ダニエルを投げ出し、1人で自由に行動できさえすれば、もっと楽にうまく世渡りすることもできたかもしれない。(スーパーパワーの件だってダニエルに擦っても良い)けれどもショーンはそれをしなかった。 ダニエルはメキシコへ行く理由もうまく把握できていないし、「スーパーパワーさえあれば」と子供ながらの無垢さで、自分の存在が世の中へ知れたらどんな扱いを受けるのかということについて恐怖心さえ抱いていない。全くのリスク意識というものを持ち合わせていない。ダニエルはしばしば、(仕方のないことであるが)わがままで、ふざけたりし、生意気なことを言う。そしてアメリカへの愛着を持ち合わせている(これはアメリカで生活した年数がショーンよりも短いためかもしれない。)2人にはメキシコから移民としてやってきた父エステバンの血と、兄弟を捨てて放浪生活を送る母カレン※5の血が流れており、そのこともまた兄弟を「メキシコ」と「アメリカ」との間で引き裂くモチーフとして作用しているが、言うなればショーンの方がより「メキシコ的」であり、ダニエルの方がより「アメリカ的」である。 この、アメリカとメキシコとの間で兄弟が引き裂かれながら、共にメキシコを目指すのか、それとも(ダニエルの意思を尊重しつつ)別々の道を歩むのか、あるいはそれは合意に基づくもの・納得のいくものではなく、2人の心が離れた結果としての別離であるのか、が物語の最終的な焦点となる。※6

 

※5 兄弟を「見捨てた」母カレンは人種的に白人ということになるが、アメリカ社会もまた白人社会であり、法治国家ではありつつもメキシコ系移民2世の兄弟を見捨てたアメリカという国家が母カレンに仮託されているようにも思える。第1章ではディアス家が隣人とのあいだに敷地トラブルを抱えていることが示唆されているが、ここですでに、米墨間の壁を暗示する「柵」の存在が示唆されており、米墨間の移民問題の縮図としてディアス家と隣人とのあいだのトラブルが設定されていることがわかる。

 

※6 ダニエルは依然、「子供」として守られる一方で、ショーンはより多くの差別や暴力を受け、ダメージを負い、アメリカというものに対する反感は自然と強まっていく。一方でダニエルもパワーのコントロールを覚え、自我も強くなっていき、兄とは別人格としてあろうとする。これもまた2人を別離の道へと後押しもするし、あるいは全く別々の人間としてありながら共存の道を模索する選択肢も示唆する。

ゲーム雑記 #2 -1/26 [2024]

LIFE IS STRANGE 2には大麻が登場し、まるまる1つのエピソードを使って農場における労働従事者たちを描いている。「どうやら大麻とダニエルの超能力に類似点を、クリエイターたちが見出しているかららしい」と気がついたのであとでメモを書く。

 


・・・

 


大麻に限らず、酒・タバコ・性的な快楽といった、ティーンたちが法定年齢になって接する諸物には、もちろん嗜好品としての性格があれど、自己破壊と結びつきやすい。そのような、力と自己破壊・堕落とのあわいの類似点が超能力とのあいだに見出されているのだ。

 


だから大麻をはじめとして、酒・タバコ・性がLIS2で登場するのは、単に「ティーンにとって刺激的だから」という演出でも、「社会問題を盛り込む」という安直な批評家受け狙いでもない。ちゃんとした比喩的(象徴的?)意味合い、物語的な意味があるのだ。

 


もちろん、大麻もそうだけど、「正しいのか、間違ってるのか、考え、議論して決断しなさい(共同体のみんなで)」というのは超能力も同じ。大人は眉をしかめるけど、それがダメな合理的根拠は何なの?(規制すべき?禁止?どんな生産〜販売システムなの?って)

 


そして本当にダメな、麻薬やドラッグは登場しない。あくまで「賛否両論」「議論がわかれる」から登場する。そこで自分なりの(できれば理性的な・合理的な)根拠から賛成・反対を述べるのが大人でしょ、大人になることでしょ、って

 


そこでアメリカ社会をわかっている(?)(そして自分たちも宗教戦争の歴史を経験した)フランスのDON'T NODさんなので、人々の判断の根拠になる信仰、つまり宗教的要素のことも忘れていない

 


といったところ

 

 

 

 


https://x.com/4fraid_video/status/1750551235990790232?s=46&t=f08eI0ZKof8UZTVXOuUzyw

ゲーム雑記 #1 -1/25[2024]

1.25(木) [2024]

 

ジョジョ・ラビット』を観るなら『ライフ・イズ・ストレンジ2』と『TELL ME WHY』を観て欲しい(プレイして欲しい)

⇨ 子供と物語的世界認識、観客には見える過酷な現実

 

 

 

 


1. 「YOWPY」製作の2本の短編ゲーム(無料・デモ版)をプレイした。

 

2. 『マイティ・ソー:バトルロイヤル』(ラグナロク)[2017年]で名を挙げたタイカ・ワイティティ監督は、2019年の映画『ジョジョ・ラビット』で、空想好きの少年を主人公にしてナチス統治を描き、これは「空想すること」をそのまま物語にしたものでもあるんだけど、LIFE IS STRANGE 2と前日譚のThe Awesome Adventures of Captain Spiritと、TELL ME WHYはこれに似ていて、過酷な現実と少年少女の空想という対比、それから主人公たちの空想的な世界観(世界認識)を借用した格好で映像化が為されているな、と感じた。 昨日、アニメーション映画『千年女優』[2001年|今敏監督]を視たもので

 

3. Twin Mirrorの主人公サミュエルに対し、Mind Palaceを与えるか、それともSocial Selfを残すかによってエンディング分岐は異なるけれども、前者を選択した場合にサミュエルはこの「目の前の人物を矯正しようとする」思考を続けるので、「その人の心理的な要因について考察する」「根本的な原因にコミットする」ような思考に到達しない。

⇨ 関連記事:https://x.com/4fraid_video/status/1749798056265130150?s=46&t=f08eI0ZKof8UZTVXOuUzyw

母 -TELL ME WHY、そしてLIFE IS STRANGE2

LIFE IS STRANGE 2の主人公も、TELL ME WHYの主人公も、物語開始時点では自分たちの母親を「悪い母親」だと思い込んでいて、プレイヤーもいったんはその前提でゲームを進めていくんだけど、だんだん「そうではない」ということが分かっていく。

 

TELL ME WHY のなかでは、「全部母親のせい」という考え方は確実に誤解であるという状況証拠・物的証拠が積み重なっていき、最終的にプレイヤー(=主人公)が思考の前提を見直す方向へと誘導されていく。

 

LIFE IS STRANGE 2では、主人公(特にショーン)は最後まで母親に対するわだかまりを抱えたままエンディングまでを迎えるけれども、母の実家を訪れたり、実際に会って話すことによって、少なくとも「嫌い」「憎い」「軽蔑」といった感情から、「わだかまり」程度には緊張が緩和されるのではないか

 

このような、一見すると「悪い母親」として最初は登場するTELL ME WHYとLIFE IS STRANGE 2の2人だけれども、実際には彼女らの生育環境(家庭環境)や生い立ち、現在の社会的な環境が彼女らを追い詰めていたということが判明する。

 

2つの物語が促すのは、「ただ目の前の人物を悪と決めつけて矯正しようとしたり、叩いたりするのではなく、生い立ちにまで思いを馳せて原因を考慮し、そこから根本的な解決策(社会を良くすること)を考えること」だと思う。

 

これはもともとLIFE IS STRANGE(そしてBtS)で行われたことで、非行少女クロエにだって心理的背景があるし、クロエを傷つけるデイヴィッドにも理由があり、「嫌なやつ」のネイサンやヴィクトリアにも心理的な要因がある。これらは社会的要因だったり、家庭環境だったりする

※ただ1人ジェファソンだけが同情の余地のない純粋悪として批判されるために、そういった社会的背景や生育歴などを与えられていない。

 

LIFE IS STRANGE(無印)やBtSでは、「嫌なやつや非行少年・少女の生い立ち(家庭環境)を考えてみよう」という前提のもとにキャラクター設定やストーリーが進んでいくんだけど、これをさらに推し進めて、深く、より具体的に描写することを意図したのがTELL ME WHYやLIFE IS STRANGEの母親たちだと思う

 

つまり、よりファミリーツリーを遡って元凶へ、元凶へ、と辿っていく。(ただしそこに他責思考はない)

 

 

 

映画『Mank/マンク』

『Mank/マンク』(2020)は、デヴィッド・フィンチャー監督によるNetflix映画。

オーソン・ウェルズ監督による不朽の名作『市民ケーン』(1941)の脚本家であるハーマン・J・マンキーヴィッツ(通称"マンク")を主人公とする伝記映画。全編モノクロで製作された。

 

マンクが『市民ケーン』の脚本を執筆する「現在」パートと、1920年代末に始まる世界恐慌期を回想する「過去」パートを交互に行き来しながら進行する。さながら『市民ケーン』が現在と過去を頻繁に行き来しながら進行する、当時としては大胆な時間構成を採用したことに似ている。

 

『Mank/マンク』の脚本を執筆したのはデヴィッド・フィンチャー監督の父親ジャックである。ジャックは2003年に亡くなっているものの、息子デヴィッドが父の脚本を映画化にこぎつけた。

 

市民ケーン』は現在「映画史上の最高傑作」と言われるほど高く評価され、公開当時もアカデミー賞9部門にノミネートされたが、受賞は脚本賞のみにとどまった。

その理由は、主人公ケーンのモデルが、実在の新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストであったことだという。ハーストは『市民ケーン』製作の噂を聞きつけると、妨害工作を行い、映画がアカデミー賞にノミネートされたあともそれを続けたという。

 

『Mank/マンク』は現在パートにおいてこのハーストによる妨害工作を描きつつ、過去パートにおいては、世界恐慌期において映画業界に従事する労働者たちの苦境を描き、経営者による搾取を批判した。このような批判は現代にも通じるものである。

 

映画は最終的に、政治的な駆け引きに巻き込まれたマンクの機転と、彼がアカデミー賞脚本賞受賞するまでを描いて終わる。

 

 

【作品解説】

映画『市民ケーン』の製作・上映・表彰に対して新聞王ハーストが妨害をおこなったのは、自身が映画内で戯画的に風刺されることを恐れてのことであろう。実際には、『市民ケーン』の脚本家に、ハースト本人を糾弾する意図があったかどうかは定かではない(『Mank/マンク』を観ているとそうも思いたくなる)が、億万長者ケーンの孤独を演出するにあたって、少なからずハーストに関する実話に基づくネタを盛り込んだのは確かだ。

映画『市民ケーン』の中には当然、脚本家(作家)の姿はもちろん、ハーストら実在のモデルたちの姿が登場することはない。けれども『Mank/マンク』は、『市民ケーン』を題材にするだけでなく、作家や、そして実在のモデルたちも包括し取り込むことによって、「現実世界が、いかにして創作物の内部にあるモチーフへと反映されているか」というテーマに関する一考を与えてくれるように思う。

それに際し、『Mank/マンク』はマリオン・デイヴィスを好意的に描いているから、少なくとも映画としては彼女を非難する意図は全くないということを示している。その上で映画はハースト(=男性・権力者)に対する批判を集めようとしているけれども、そのために結果としてデイヴィスを傷つけることになったのは、フィンチャー作品らしい大人のビターさ、といった所だろう。

『Mank/マンク』は映画製作に従事する労働者としての立場から、ビジネス的視点で采配を振るう経営者と、彼らの政治的な行動を批判している。もはや過去の出来事となった歴史上の出来事についての批判でありながら、現在の出来事に対する批判として通用する、このような「フィクションと現実との接点」という関係は、もともと『市民ケーン』が持ち合わせていたものでもある。

市民ケーン』を中心に、作家マンクと業界人たちを描き、「映画人魂」のようなものを根底におきながら、公開当時に『市民ケーン』の味わった苦境を事実ベースに描くことは、作品に対して不当な扱いを行ったことに罪悪感を抱えながら現在までながらえてきた業界にとって癒しと安らぎを与える、というところだろうか…

 

★ハーストに敵対するマンクの精神と、現代の我々が持つ権力者に対する批判精神がぶれることなく一致している。一直線につながっている。『Mank/マンク』の製作者はハーストに対する批判精神を相対化しておらず、我々が有する批判精神・反権威精神につながるものとして絶対化(?)している