4FRD

映画・ゲーム考察

LIFE IS STRANGE 2

LIFE IS STRANGE 2 は、ヒスパニックの血が流れる2人のアメリカ人兄弟の逃避行を描くロードムービーである。

 


シアトルに住むダニエルとショーンの兄弟は、「シアトル銃撃事件」がきっかけで父を失い、逃亡生活を送ることになる。

 


2人はメキシコにある父の故郷「プエルト・ロボス」を目指しながら、生活のすべを探しつつ、ダニエルに発現した謎の「スーパーパワー」をコントロールする方法を探る。サバイバルの物語である。

 


本作は、ヒスパニック系の兄弟が、アメリカ人による不当な差別や偏見を経験する物語でもあり、道中で親切な人々との出会いと別れの物語でもある。

 


全5章からなる物語の各章で、主人公(プレイヤー)は衣食住を確保しながら、南下しつつ、ダニエルの「パワー」をコントルールし、不当な差別を経験しながらも、親切な人々の助けを借りつつ、しばしば囚われの身になり、脱出・解放の道を探らねばならない。

 

 

 

まず第一に、ショーンとダニエルはアメリカ国籍を持つ正式なアメリカ国民である。法にしたがうべき存在であり、法によって守られるべき存在でもある。

物語冒頭時点で、ショーンは道徳や倫理観を備えたふつうの高校生(ティーンエイジャー)であり、違法行為に手を染めたり、悪意を持って他者に接したりする攻撃的・反社会的な性格をしていることはない。そして兄弟の父親のエステバンも、(少なくとも現在は)完全に合法的な職業で生計を立てており、良識的なアメリカ市民である。※5

 


しかし、広大で無人アメリカ大陸を旅するショーンは、都市を離れ長い逃亡生活を送っており、元々不当にシアトルを追い出される形になったこともあって、利己的・攻撃的にもなり得る。※1シアトル銃撃事件の詳細→後述

 


一方弟のダニエルは純粋無垢で、旅の最初は状況が把握できていなかったこともあり、ショーンは危険な「パワー」をコントロールする方法をサポートするだけではなく、ダニエルの手本となるような行動を示す必要がある。

 


したがって、不当な差別を経験し、無法地帯にありながらもショーンがせめて「道徳的」「倫理的」「法令遵守」のいずれかであろうとするのは、単に「自分が無罪であること」「アメリカの法を守る国民であること」を示すシアトルの名残であるだけでなく、ダニエルにとっての基準となるためでもある。

※ 2「フィクション上の都合」と「もうどうでも良いや」と「メキシコに対する暗黙のイメージ(無法地帯/自由)」

 

 

 

※1「シアトル銃撃事件」について: ショーンがダニエルを連れて逃げたのは、白人による差別意識を体感したからである。警官が、ヒスパニック系である自分たちを悪者/脅威と決めつけて銃を向けてきた。話を聞くこともなく。それゆえ、「このまま警察に捕まれば自分たちが悪者にされるに違いない」という直感・本能的な危機意識から、ダニエルを連れて逃亡した。もちろん「状況証拠としてショーンの目の前に白人の少年が倒れていた※3こと」そして「ダニエルの能力を突発的に目の当たりにしてしまい、ダニエルを守るために言い訳できなかったこと」も判断材料にはあったものと思われる。後者については、「スーパーパワーをどう扱うか」というのは全くアメリカ側(国家側)の倫理観の問題であり、発現も完全に突発的なものだったので、全くショーンに責任はない。また、ショーンの目の前に少年が倒れていたのも、元々は少年がダニエルに絡んできたからで、ショーンは普段からこの隣人の少年によって差別的な言動を浴びせられてきた。確かに押し倒したことには問題があったかもしれないが、隣人はショーンとダニエルのいるディアス家の敷地内にまで踏み込んできていた。そしてなんら話を聞くことなく、一方的にヒスパニック系の国民を悪者/脅威だと決めつけて、丸腰の父親を撃ったのは完全に新人警官の判断ミスである。(おそらく警察の内部規約/教則にもしたがっていなかったのではないか)訓練ミスである。

 白人少年にも差別的な言動の背後に心理的要因があったろう(情状酌量の余地がどの程度であるかはさておき、多少の社会的影響、すなわち家庭環境(経済状況・親の言動)・学校環境(友人との関係)・新聞やテレビ、SNSなどのメディアによる影響)し、新人警官においても状況証拠はどうあれ、ヒスパニックに対する潜入感はあったかもしれない。実際、例えばアメリカ国内において・ワシントン州内において・シアトル市内において・地区において、ヒスパニック系による犯罪率が白人と比較してなどから高いという統計データが実際に存在していたかもしれない。しかしだからと言って、ヒスパニックが関係する「疑わしき」状況において、話を聞かずに潜入感に基づいて行動していると、個人レベルにおけるヒスパニック系による反感を生み、それがマクロな「白人社会 対 ヒスパニック」の対立・分断へと肥大化しかねない。実際メディアで取り上げられている対立はこのようなマクロなものであるが、LIFE IS STRANGE2は、このようなマクロな分断につながる個人間レベルでのミクロな「偏見・差別とそれに対する反感の発生」をうまくそのまま物語において映像化することに成功している。ショーンが差別的言動を受けてもなお良識ある振る舞いを心がけるのは、あるいは「因果応報(目には目を)」という私的制裁を個人の判断で行うことなく、シアトルにいたままの振る舞いを心がけようとするのは(もちろん、プレイヤーがそう望めば、だが)、差別的な言動に対して反感を生じ、自分までもが反白人社会・反アメリカ社会のマクロな運動に与してしまっては、相手の反感も強めるばかりで、結局普段のミクロな対人関係において余計に厳しい偏見や攻撃に晒されるだけだと知ってのことでもある。※4

 


※3 ショーンの押し倒した少年の生死や容体については、ショーンのためにも触れられていない。(開発者側の配慮として)

 

 

 

そういった状況下でも、旅の途中で立ちはだかる障壁を払い除けるため、ダニエルと信頼関係を構築しながら、ダニエルの力を借りてスーパーパワーを行使することは、兄弟に良い結末をもたらすという意味で、物語そのもの(ないし開発者)の罰するところではない。

 

 

 

※4 ショーンは旅の過程で、ダニエルの盾となって差別的な言動や理不尽な暴力まで一身に受けている。2人で行動していない場面にあっても、ショーンが暴力を受けても耐えるのはダニエルと共にありたいと願うからだ。ダニエルを投げ出し、1人で自由に行動できさえすれば、もっと楽にうまく世渡りすることもできたかもしれない。(スーパーパワーの件だってダニエルに擦っても良い)けれどもショーンはそれをしなかった。 ダニエルはメキシコへ行く理由もうまく把握できていないし、「スーパーパワーさえあれば」と子供ながらの無垢さで、自分の存在が世の中へ知れたらどんな扱いを受けるのかということについて恐怖心さえ抱いていない。全くのリスク意識というものを持ち合わせていない。ダニエルはしばしば、(仕方のないことであるが)わがままで、ふざけたりし、生意気なことを言う。そしてアメリカへの愛着を持ち合わせている(これはアメリカで生活した年数がショーンよりも短いためかもしれない。)2人にはメキシコから移民としてやってきた父エステバンの血と、兄弟を捨てて放浪生活を送る母カレン※5の血が流れており、そのこともまた兄弟を「メキシコ」と「アメリカ」との間で引き裂くモチーフとして作用しているが、言うなればショーンの方がより「メキシコ的」であり、ダニエルの方がより「アメリカ的」である。 この、アメリカとメキシコとの間で兄弟が引き裂かれながら、共にメキシコを目指すのか、それとも(ダニエルの意思を尊重しつつ)別々の道を歩むのか、あるいはそれは合意に基づくもの・納得のいくものではなく、2人の心が離れた結果としての別離であるのか、が物語の最終的な焦点となる。※6

 

※5 兄弟を「見捨てた」母カレンは人種的に白人ということになるが、アメリカ社会もまた白人社会であり、法治国家ではありつつもメキシコ系移民2世の兄弟を見捨てたアメリカという国家が母カレンに仮託されているようにも思える。第1章ではディアス家が隣人とのあいだに敷地トラブルを抱えていることが示唆されているが、ここですでに、米墨間の壁を暗示する「柵」の存在が示唆されており、米墨間の移民問題の縮図としてディアス家と隣人とのあいだのトラブルが設定されていることがわかる。

 

※6 ダニエルは依然、「子供」として守られる一方で、ショーンはより多くの差別や暴力を受け、ダメージを負い、アメリカというものに対する反感は自然と強まっていく。一方でダニエルもパワーのコントロールを覚え、自我も強くなっていき、兄とは別人格としてあろうとする。これもまた2人を別離の道へと後押しもするし、あるいは全く別々の人間としてありながら共存の道を模索する選択肢も示唆する。