4FRD

映画・ゲーム考察

映画『Mank/マンク』

『Mank/マンク』(2020)は、デヴィッド・フィンチャー監督によるNetflix映画。

オーソン・ウェルズ監督による不朽の名作『市民ケーン』(1941)の脚本家であるハーマン・J・マンキーヴィッツ(通称"マンク")を主人公とする伝記映画。全編モノクロで製作された。

 

マンクが『市民ケーン』の脚本を執筆する「現在」パートと、1920年代末に始まる世界恐慌期を回想する「過去」パートを交互に行き来しながら進行する。さながら『市民ケーン』が現在と過去を頻繁に行き来しながら進行する、当時としては大胆な時間構成を採用したことに似ている。

 

『Mank/マンク』の脚本を執筆したのはデヴィッド・フィンチャー監督の父親ジャックである。ジャックは2003年に亡くなっているものの、息子デヴィッドが父の脚本を映画化にこぎつけた。

 

市民ケーン』は現在「映画史上の最高傑作」と言われるほど高く評価され、公開当時もアカデミー賞9部門にノミネートされたが、受賞は脚本賞のみにとどまった。

その理由は、主人公ケーンのモデルが、実在の新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストであったことだという。ハーストは『市民ケーン』製作の噂を聞きつけると、妨害工作を行い、映画がアカデミー賞にノミネートされたあともそれを続けたという。

 

『Mank/マンク』は現在パートにおいてこのハーストによる妨害工作を描きつつ、過去パートにおいては、世界恐慌期において映画業界に従事する労働者たちの苦境を描き、経営者による搾取を批判した。このような批判は現代にも通じるものである。

 

映画は最終的に、政治的な駆け引きに巻き込まれたマンクの機転と、彼がアカデミー賞脚本賞受賞するまでを描いて終わる。

 

 

【作品解説】

映画『市民ケーン』の製作・上映・表彰に対して新聞王ハーストが妨害をおこなったのは、自身が映画内で戯画的に風刺されることを恐れてのことであろう。実際には、『市民ケーン』の脚本家に、ハースト本人を糾弾する意図があったかどうかは定かではない(『Mank/マンク』を観ているとそうも思いたくなる)が、億万長者ケーンの孤独を演出するにあたって、少なからずハーストに関する実話に基づくネタを盛り込んだのは確かだ。

映画『市民ケーン』の中には当然、脚本家(作家)の姿はもちろん、ハーストら実在のモデルたちの姿が登場することはない。けれども『Mank/マンク』は、『市民ケーン』を題材にするだけでなく、作家や、そして実在のモデルたちも包括し取り込むことによって、「現実世界が、いかにして創作物の内部にあるモチーフへと反映されているか」というテーマに関する一考を与えてくれるように思う。

それに際し、『Mank/マンク』はマリオン・デイヴィスを好意的に描いているから、少なくとも映画としては彼女を非難する意図は全くないということを示している。その上で映画はハースト(=男性・権力者)に対する批判を集めようとしているけれども、そのために結果としてデイヴィスを傷つけることになったのは、フィンチャー作品らしい大人のビターさ、といった所だろう。

『Mank/マンク』は映画製作に従事する労働者としての立場から、ビジネス的視点で采配を振るう経営者と、彼らの政治的な行動を批判している。もはや過去の出来事となった歴史上の出来事についての批判でありながら、現在の出来事に対する批判として通用する、このような「フィクションと現実との接点」という関係は、もともと『市民ケーン』が持ち合わせていたものでもある。

市民ケーン』を中心に、作家マンクと業界人たちを描き、「映画人魂」のようなものを根底におきながら、公開当時に『市民ケーン』の味わった苦境を事実ベースに描くことは、作品に対して不当な扱いを行ったことに罪悪感を抱えながら現在までながらえてきた業界にとって癒しと安らぎを与える、というところだろうか…

 

★ハーストに敵対するマンクの精神と、現代の我々が持つ権力者に対する批判精神がぶれることなく一致している。一直線につながっている。『Mank/マンク』の製作者はハーストに対する批判精神を相対化しておらず、我々が有する批判精神・反権威精神につながるものとして絶対化(?)している