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映画・ゲーム考察

ゲーム "The Awesome Adventures of Captain Spirit" (2018)

The Awesome Adventures of Captain Spirit (2018)は、DON'T NOD社より、LIFE IS STRANGE 2 (2018-19)の発売に先駆けて無料で発売されたポイント&クリック形式の3人称視点RPGである。

LIFE IS STRANGE 2 (以下「LIS2」)に先駆けて発表され、無料でプレイ可能であることから、あたかも本編(LIS2)のデモ版や無料体験版であるかのような印象を与えるが、本作の主人公は、LIS2の主人公であるショーンとダニエルの兄弟とは異なる。

 

The Awesome Adventures of Captain Spirit (以下「CS」) 主人公はクリスという白人の少年であり、LIS2の主人公兄弟はメキシコ系(厳密には父がメキシコ人移民、母が白人)であることから、CSの主人公が白人の少年であるからと期待してLIS2の発表を待ち望んだ、白人優位主義的なファンの性格を炙り出すような意図が、開発陣・経営陣にはあったのではないかとも推察される。

実際LIS2は、メキシコ系の主人公兄弟が、白人による差別と偏見から事件に巻き込まれてしまったことが物語の発端となっている。物語を進めていくなかでも白人による差別的言動に何度も直面する。

 

なお、LIFE  IS STRANGE(2015)が少女を主人公にしていたのと比較すると、LIS2、およびその事前版であるCSは、少年らしいテイストとなっている。

 

CSの主人公クリスは、ヒーローに憧れ、想像力の豊かな、どこにでもいる普通の少年であるが、一人親家庭であり、シングルファザーの父親はアルコール依存症を抱えている。

物語を進める(=オブジェクトにインタラクトしていく)うちに、クリスの母親はひき逃げによる自動車事故で亡くなったことが判明し、犯人が見つからないやりきれなさから父親はアルコールに溺れ、職を転々としていることが明らかとなる。

プレイヤーに課されたタスクはあくまでクリスの「やることリスト(=ごっこ遊び)」を行うことであるが、オブジェクトにインタラクトすることによってクリスは家事をすべて1人で行うことが可能であり、作品のテーマが「ヤングケアラー」(アダルトチルドレン)であることがわかる。

 

なお本作には会話の選択肢が存在するものの、DON'T NOD作品、そしてLIFE IS STRANGE IPの特徴である「マルチエンディング(エンディング分岐)」は採用されていない。

 

クリスの父親は、「アルコール依存症に関連したトラブルで何度も仕事を首になっており、そのことが彼の社会的信用を損なわせ、いっそう就職を困難にするのでアルコール依存症を強める」という負のループに陥っているが、新しい女性との出会いもあり、クリスにとって母方の祖父母からの支援の申し出もあるため、この物語の親子には希望の光が残されている。(アルコール断酒会のチラシも、父親の部屋で発見されている)

 

このような「家族の死と子供への精神的な影響」という構図はまさにLIFE IS STRANGEやその前日譚 LIFE IS STRANGE : Before the Storm (2017)のなか描かれたものであり、重要な登場人物であるクロエは父親の死をきっかけに非行へ走り、周囲からのサポートも得られないまま学業優秀な道を捨て、学校を退学になっている。

ヤングケアラーであるCSの主人公クリスは、クロエと同じような道を辿るかどうかの分かれ目にあると言えるだろう。

 

家族の死が、子供を非行に走らせるなどの将来への深刻な影響を与える理由として、LISやBtSにおけるクロエについては心理的な影響は指摘されているものの、因果関係の具体性や明瞭さに欠ける。その点と比較すると、CSにおいては「ヤングケアラー」という問題に当てはめたことによって、物語内における人物描写の解像度が高まるのみならず、現実に存在する問題に対してプレイヤーが目を向けるきっかけを与えるであろうことが期待される。

映画『スティーブ・ジョブズ』(2015)

映画『スティーブ・ジョブズ』(2015)は、脚本構成の基本術と言われる「三幕構成」に、ジョブズの人生における3つの転換点「1984年」「1988年」「1998年」を重ね合わせたものだ。

それぞれ1984年はMacintosh、1988年はNeXTcube、1998年はiMacの、製品発表会が行われた年である。

史実によれば、Macintoshが後世に残した影響力は絶大であるが、NeXTcubeは商品としての売れ行きが不調で、ビジネスマンとしてのジョブズの顔にとっては失敗であった。だが彼はiMacと共にカムバックを果たし、その後のiPod、そしてiPhoneなどの成功は現在見ての通りである。

 

しかしながら、映画が描くことを目的としたのは、このようなApple製品の成功/失敗と紐づけられたジョブズの挫折と栄光ではない。ビジネスマンとしての表の顔は、映画の主眼にはない。

というのも映画が描いたのはジョブズにとっての「表舞台」ではなく、彼の成功の影にあった、人格的側面や、仲間との関係、そして家族との関係だ。そのことをより明確に伝えるため、映画の舞台となったのは、文字通りの製品発表の「舞台裏」だ。3つの製品それぞれの発表直前、カーテンの裏で起こっていた、数十分間の出来事を創作して映画にしたのだ。

そこでは彼の製品へのこだわり/執着の裏返しでもある人格的欠陥や、仕事仲間・家族との確執、そして最終的には和解が描かれる。

 

このような人間関係もまた、三幕構成の「起伏」となって、製品発表の成功/失敗が、人間関係の変化に重ね合わせられながら、物語は進行する。

 

Appleの顔」として、あるいはビジネスマンとして、すなわち「表の顔」におけるジョブズの人生の浮き沈みは新聞やニュースを通してすでに周知の事実である。けれども断片的に与えられてきたジョブズの人格にまつわるエピソードや、家族との関係にまつわるエピソードといった「内幕」をひとつに統合し、1つの筋につらなる浮き沈みとして表象することにドラマ性が生まれる。

というのも、もはや時代は「表の顔」では満足も納得もしないからだ。サクセスストーリーを諦めた時代に、批判的視点なくては観客は納得しない。かといって批判的視点ばかり取り上げてもドラマとしての尊さは生まれない。そこにフィクションの力が発揮される。

 

 

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2011年、ジョブズの死去後、2013年にアシュトン・カッチャーが主演した同名映画『スティーブ・ジョブズ』が公開されているが、2013年版は評判が良くない。

2015年版はマイケル・ファスベンダー主演であり、監督ダニー・ボイル、脚本(脚色)アーロン・ソーキンと、力の入った布陣。実際、2015-16年にかけての賞レースに名乗りをあげた。

特にアーロン・ソーキンは、facebookの創業者マーク・ザッカーバーグを主人公として描いた伝記映画『ソーシャル・ネットワーク』の脚本家であり、批評家をして「21世紀の『市民ケーン』」と言わしめた手腕を持つ。

本作と『ソーシャル・ネットワーク』の共通点といえば、IT・テクノロジー分野が舞台であるということはもちろんであるが、業績に注目の集まる主人公の複雑な人格、特に「嫌なやつ」としての側面を描きつつ、彼(ら)の根源的な欲求や衝動(リビドー/原型)に遡って描いた部分である。強く成功を追い求めながらも、人間関係が希薄でどこか空虚、そして満たされることのない私生活の面に、観客は自己との通底を見出す。

これは『市民ケーン』(1941)が、新聞王として莫大な富を得ながらも、女との幸せな生活を送ること能わず、孤独に死んでいったチャールズ・フォスター・ケーンが遺した、「バラのつぼみ」という言葉に集約される、「幼い頃の思い出」「両親との別離」「孤児としての少年時代」という過去によって、満たされることなき愛を追い求めたというささやかなロマンチズムを暗示する点と似ている。

ソーシャル・ネットワーク』が『市民ケーン』との類似点を指摘されるのは「億万長者の孤独」という主題のみならず、どちらの作品も現代と過去を頻繁に行き来しながら映画が進行していくダイナミックな時間構成を採用しているからであるが、2015年版『スティーブ・ジョブズ』についてもただ3つのターニングポイントのみを取り出し、その数時間に、主人公の生涯を集約させようという大胆さがある。

 

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ティーブ・・ジョブズは存命時点ですでに伝説的な人物として崇められていたが、スマートフォン黎明期においてiPhoneの発売によってAppleが覇権をほとんど握ろうとしていた(ブランドを確立していた)2011年における死は、大きな話題性を以て報じられた。

 

スティーブ・ジョブズ信奉者たちと、それを風刺的に皮肉る人たちとの争いが、ジョブズの仕掛けたまさにスマートフォン上で行われたことは皮肉である。

 

本作の脚本家に求められたのは、ジョブズの信奉者たちを「必ず映画を観てくれるターゲット層」として見据えながらも、彼を神格化することなく、人格的な欠点やプライベート上の問題点を指摘しながら、なおかつ映画としてドラマチックなエンディングへと到達することであったろう。

 

現代では、たとえ偉大な業績を残した人物であっても、神格化し、ファンタジーのように都合の良い部分だけを見ることは許されない。功績とその罪を分けて考えることは、一般市民にも要求される。(元から史学者たちはそうしてきたわけであるが。)

 

インターネットやSNSによって、新聞紙や司法が歴史的に担ってきた役割・機能が、一般市民にも分譲された。特に大衆紙・週刊誌は、「醜聞を欲する」という人間の悪い部分につけ込んだ商売だが、スマホSNSはあまりに手軽なインフラであるがゆえに、人間の悪い部分を奥底から引き出し、拡張してしまった。そのため、「特定の人物(偉人)を神格化せず、その功罪を客観的・公平的にながめる」という考え方はあっても、素人が安易に行えてしまう「批判的であろうとする」姿勢ばかりが人口に膾炙し、根付いてしまいつつあるようにも思える。

 

スティーブ・ジョブズ』(2015) は、エンディングにおける家族との和解において、そのフィクション性が過剰であるようにも思える(あれは願望に過ぎない)が、しかし、「著名人の功績を精確に同定し、どの業績が誰のものであるか確定する」「偉人の訓話ばかりを捏造せず、批判的な思考で事実に当たる」という、新しい伝記(映画)の標準において一定のレベルを示したのではないだろうか。たとえそのことが、人々からドラマへの幻想を奪い去ってしまうとしても、だ。少なくとも家族との関係や親子関係について、現実に活かされるある種の教訓、反面教師の姿がそこにはあるだろう。

 

 

 

TWIN MIRROR プレイ後記

真実に固執し、悪と向き合うことを精神病気質として遠ざけ、精神の平穏と社交的な幸福を最良とすることが「ベストエンディング」であるかはさておき、真実と幸福や平穏とを対置して二者択一(トレードオフ)を迫るのは無理があるとも言えるし、安易に「真実も幸福も手に入れてハッピーエンド」(アウフヘーベン?)ともしないビターさを獲得しているとも言える。プレイヤーに「真実と幸福」の二者択一(トレードオフ)を迫るのは、プレイヤーの人間性や信念を浮き彫りにするためとも言えるし、周回プレイのためとも言える。(実際、このゲームのエンディングの多様さは素晴らしい)

TWIN MIRROR 紹介メモ

TWIN MIRROR (2020)は、LIFE IS STRANGE (2015) LIFE IS STRANGE 2 (2018-19)を開発したゲーム会社DON’T NODによって開発・発売された、マルチエンディングの選択分岐型ナラティブ・ゲームである。

 


LIFE IS STRANGE LIFE IS STRANGE 2、また本作と並行して開発・発売されたTELL ME WHY (2020)が、若者を主人公としたティーン性を打ち出している作品であるのに対し、本作は大人を主人公としたダークでシリアスなサスペンスドラマであり、LISやLIS2がゴールデンアワーのオレンジやセピアを、TMWがホワイトやグレーを基調としていたのに対して、TMは黒を作品の基調色とし、影や陰影を強調した映像作りがなされているが、これは主人公のメンタルヘルスに関わる問題を反映してのことでもある。

しかし作品の根本にある”Zen Moment”のコンセプトは変わらず、DON’T NOD開発作品の全てに共通する、アンビエンタルでフォトジェニックな、ダウナー系の気質を受け継いでいる。

 

高いドラマ性(ストーリー、人間関係の設定、心理描写)や、印象的なビジュアル、良質なサウンドトラックが追及された点にDON'T NODらしさがある。

 

DON'T NODの他作品が、ティーンやマイノリティ、女性を主役に据えることで、男性中心のアクションゲームとは異なる路線を模索してきたのに比較すると、中年男性を主人公とする本作は一見、男性を主役とする「伝統的」な作品にも思えるが、実際には他者との関係を模索しながら最良の選択を積み重ねる、人間関係の構築に主眼が置かれたゲームであることがわかる。したがって他者を一方的に打ちのめし、勝者や成功者を目指す、というような、「力」の追求をめざす従来型のサクセスストーリーとは全く異なる。

 

DON'T NODは、LIFE IS STRANGEのなかで「己と対立する他者の心理の奥底にある、家庭や社会・地域といった環境要因」へと想いを馳せることの重要性を強調し、単純な勧善懲悪の構造は採用しなかった。(ただし、物語の黒幕については、作中においては純粋悪と見做され、情状酌量の余地が与えられない傾向にある)これは主として、若者の目線に立って行われ、同世代の若者や、親・教師といった大人が「なぜそのような行動をするのか」という行動形成の問題を、家庭環境やその人物の経歴から解き明かすことで成される。最終的に、問題の原因は社会構造・経済構造や、究極的には生存・資源といった根本的な要因へと帰着するので、作品は「若者目線で見た、現代社会と、そこに生きる大人の抱える問題」という視座に立っていることがわかる。TELL ME WHYは、子供の目線と大人の目線の両方を有し、「大人を理解する」過程を描いているので、純粋に若者(ティーン)目線というわけではないけれども、大人であることが利己性と利他性の狭間における揺らぎであることを「嘘/建前と秘密」「情報の取捨選択」を通じて描いており、「大人」を相対化していることから、ある意味では若者目線を主人公/プレイヤーが残しながらゲーム内における判断をしていくものとされている。

それに比較すると、TWIN MIRRORはほとんど純粋に大人目線でプレイを進行してくゲーム性を有しているため、「若者目線」は排除されているように思える。けれども、主人公が物語を進めるきっかけになるのが「少女による告白」をどれほど信憑性の高いものとして受け取るか、であること、そして主人公自身も有する少年性(=冒険心)であり、それが超自我の表象であるsocial self(=社交性=大人)によって調整されているとことから見て、TWIN MIRRORも、ティーン的な衝動性によって駆動されながらも社会性(大人らしさ/配慮/気遣い)の観点が葛藤を発生させる物語であることがわかる。すなわち、若者(的)な目線を有している。

 

 


DON’T NODの過去作同様、3DグラフィックのTPS。シーンごとにオブジェクトにインタラクトしてヒントを集め、フラグを立てる点が共通している。

ムービーと、プレイヤーが操作できる場面とが交互に繰り返され、その都度「ジャーナル」の指示や、独白、「もう1人の自分(social self)」による誘導を参考にしてプレイヤーはキャラクターを操作する。

この”social self”(社交的なもう1人の自分)や、”Mind Palace”という仕組みが本作の最大の特徴であり、LISにおける時間の巻き戻し機能(rewinding)や、TMWにおける記憶の再現といった機能に相当する。

Mind Palaceについて具体的に説明すると、”現場”で過去に発生した事件の検証を行なったり(過去の再現)、これから何をすべきかという行動予測(未来の予測)を行う能力であり、比較検証に基づき、複数の組み合わせ・可能性の中から最善のもの・最も蓋然性の高いものを選び出す人間の内面的な能力(イメージ)を、インタラクティブなものとして視覚化・映像化したものである。

映画やドラマにおいて省略されがちな「検証」の過程を、プレイヤーの納得いくようじっくりと体験させるために提供されたものであり、「インタラクティブムービー」の可能性を最大限に追及したものだと言える。(映画やドラマなどのフィクションにおいて、もっとも論理的破綻が発生しやすく、また、視聴者(プレイヤー)の「動作主性」が最も損なわれやすい箇所を、丁寧に掘り下げたものと思われる)

 


Social selfは狂言回しの役割を持つが、主人公の人格における「超自我」の擬人化でもあり、主人公の内面的な葛藤をわかりやすく視覚化したり、彼のメンタルヘルスの問題の原因を探る手がかりとなる存在でもある。

なお、本作においては”analytical self”が”social self”と対を成す存在であり、主人公の行動力がもたらす他者との軋轢を調整する機能を持つ存在が”social self “であることがわかる。

 


エンディングは全部で4種類存在するが、プレイヤーがそれまでに行ってきた選択に基づき、ゲームに内蔵されたアルゴリズムに従って判定される。

 


最悪のエンディング/バッドエンディング/グッドエンディング/最良のエンディング

 

LIFE IS STRANGE:1と2の比較[DON'T NOD開発]

LiS[無印]では主人公が時間の巻き戻し能力[rewinding]を使用可能であるのに対して、LiS2では超能力[テレキネシス]を有しているのは弟のほうで、プレイヤー(=主人公)は超能力を使うことはできない。その意味では、たしかに選択肢をポチポチしているだけのLiS2では無印にゲーム性の面で劣るとも言える。

https://x.com/4fraid_video/status/1746679577941041617?s=46&t=f08eI0ZKof8UZTVXOuUzyw

 

ただし「選択分岐型」アドベンチャーという面で見ると、無印においては、ゲームを最も有名にしたであろうエンディング、"Bay or Bae"という究極の選択に、それまでゲームの中で積み重ねてきた選択は反映されていないとも言える。

 

一方で、LiS2のエンディングについて見てみると、プレイヤーは最終選択を行うだけでなく、「最終選択に対して弟がどう行動するか」に、それまでの選択の蓄積が反映されている。したがって、選択分岐型としてはLiS2のほうが熟成されて優れている、という考え方ができる。

 

無印は、rewindingの能力を活かして途中で何度も巻き戻しを繰り返しながら進行していくゲームシステムの革新性があるので、そういう意味では「選択分岐型」とrewindingの2本の柱ででゲームの面白さが支えられている。

 

無印は探索&謎解き型のアドベンチャーゲームであるのに対して、LiS2は「ムービーの中に探索と選択を織り込んだ」という感じで、「ロードムービー=1つの道筋」というイメージ通りの、1本のムービーとして成立するような工夫がされたものだと考える。

 

ゲーム性・ムービー性以外の面で見ると、やはりティーンの物語として、ビジュアルコンセプト・サウンドトラックも含めて鮮烈な印象を残した1の功績は大きい。

 

ダークで力強いゲームを目指しがちな業界の傾向に対してのカウンターとして成立する、"zen moment"を中心概念として開発されるIPの立ち上げとなった。

映画『ゴッドファーザー:最終章』あらすじと、第1作目・2作目と比較した評価の低さの理由

あらすじ

映画冒頭時点で、マイケルはファミリービジネスの完全合法化を達成している。それは自身にとっても長年の悲願であり、元妻ケイの頼みでもあったが、それを達成した時にはすでに、妻からの愛情は失われ、息子からの信頼も失って、2人はマイケルを離れてしまっていた。

マイケルはローマ・カトリック教会バチカン法王庁)とのつながりを強め、宗教的権威による後押しと承認を得ることによって、自らの社会的な正統性を補完しようとする。マフィアと蔑まれたイタリア人移民としてのルーツを持つ自分たちファミリーにとって、それはアメリカ社会において安定した生活を送り、溶け込む上での悲願であった。(気質として生きることは、マイケルの父ヴィトーが息子に願ったことでもあった。)けれどもそれは所詮金で買った承認にすぎない。

マイケルの得た権力はもはや宗教的権威をも凌ぎつつあるが、バチカン教皇庁を我がものとして操り企業買収を進めようという策略はヨーロッパ側の人間たちによって裏切られ(マイケルは合法化を達成しようとしているが、野心を捨てたわけではない)、アメリカ国内における合法化を進めたことによって過去につながりのあったマフィアたちからの不満が噴出して新たな抗争の火種となってしまう。※

こうしてマイケルは、神に誓ったはずの合法化を捨て去り、再び犯罪に手を染めてしまうことになるが、そこにはあまりにも大きすぎる代償があった。

 

 

1・2作目に比較した評価の低さの理由

① スケールの壮大さが空虚になってしまったこと:前作の時点でアメリカ社会のトップにまで上り詰めているマイケルは、ついに世界を舞台に移し、ヨーロッパ、そして神までをも相手どる。しかしそのようなスケールのデカさは物語のリアリティをそこね、かつ、敵対するアルトベロやザザといったマフィアの矮小さや、ヨーロッパ企業・教皇庁の人間たちの親しみのなさが、スケールの壮大さに釣り合っていなかったことで、物語に不足が生じていたこと。

すでにマイケルは全てを究めきった存在であり、何かを失っても怖くない。もっとも極端なものしか、失われるものとして残っていない。

② マイケルの次の世代の若者たちの演技。そしてあくまでマイケルが主役としてのポジションに留まり続けたこと:本作はマイケルのストーリーでもあり、彼の甥であるヴィンセントを、第1作目におけるマイケルのポジションと同じく次世代のボスとして出世させる物語であるが、ヴィンセントの「圧力」が不足してやや小物に見える感(しかも1作目においてタブーとされたソニーの喧嘩っ早さを発揮する人物である。マイケルは彼を教育しようとしているが、トップの人格としては終始不足している感が否めないまま物語は終わりを迎えており、「世代交代」をもう1つのストーリーとして織り込むのは成功しているとは言えない)

1作目においてはヴィトーが弱っているところでマイケルが正義感と行動力を発揮するので、彼のボス(=主役)としてのパワーの獲得に説得力が増すが、本作においてはヴィンセントが正義感を発揮していない。マイケル自身が権威(=悪者)と化してしまっている点や、宗教的権威すらもマイケルと癒着してしまっている点が難点になっているからだと思われる。

ソフィア・コッポラのふわふわした演技と、アンディ・ガルシアの終始ニヤついた演技も問題含みだ。(演出や演技は監督側の意図を反映したものなので、演技指導する側に問題があったのかも知れないが)

ソフィアの出演は、コッポラの親心の表れであり、マイケルに自身を重ねながらの製作だったのだろう。

 

あとは…1・2作目のように、始終、映画を彩った音楽と哀愁の不足。終盤のオペラシーンを念頭において、出し渋ったのだろうか。

 

 

1作目・2作目のファンであればあるほど楽しめる設定や、人生経験を重ねるほどに解像度と面白さの増す内容は、さすがである。チョコブラウンのリッチな画面構成。終盤に向けて高まる緊張感と、オペラ観劇にサスペンスを重ねる演出は圧巻。

 

 

※いちおう、「敵が先にこちらの命を危険に晒してきたので、マイケルが行ったことは自己防衛/やらなければやられるから」という名目が成立するように物語が作ってある

ゲーム『TWIN MIRROR』のなかで描かれている男性性について

「敵を倒し、注目を集め、喝采に浸る」というのは、おそらく男性的な憧憬なのだろう。

その憧憬は、幼少期であれば「ごっこ遊び」「人形遊び」「ヒーロー作品(フィクション)の消費」など、身体的で原始的な、直接のマッチョイズムとして表象される。

けれども第二次性徴を経て、男性が身体的な成熟を迎える時、その筋肉とパワーを現実に行使する相手(=敵)が必ずしも存在するとは限らない。また、現実は妄想とは異なり、打ち勝てる相手ばかりだとは限らない。

闘争に飢えた男性を都合よく満足させる娯楽として、フィクションや、政治家が民衆(男性?)の不満を解消する手札として用意された戦争、スポーツ競技・観戦などが機能する場合もある(あるいは酒やタバコ、ギャンブルや女遊びも?)が、男性の有する闘争への飢餓(もはやこの時点では加虐性だ)が必ずしも満たされるとは限らない。その結果が、女性に対する粗雑な扱いだとか、部下に対する暴言・暴力、子供に対する支配といった、自己よりも弱い立場にある者(社会的・権力的に)、明かに弱い者(肉体的・身体的に)に対するハラスメントとして表れてしまうこともある。

なお、ここで必ずしも全ての男性がマッチョイズムを志向し、闘争と勝利への欲求不満を抱えているわけではないことは強調しておきたいし、また、ハラスメントを行う人間が全て男性だけであるわけでもないことを強調しておきたい。さらには、家庭環境や豊さ(金銭的・時間的・精神的な)も、男性の闘争心を和らげ、知的・芸術的なこと、人間的なコミュニケーションへと向かわせる一助となるであろうことについても釘を刺しておきたい。

さて、主として「力」、すなわち肉体的・身体的なかたちで現れやすい男性の闘争心(幼い頃から抱く憧憬に基づく)であるが、言論という、政治的・社会的に勝敗を決する舞台ーつまり生命までもは失わなくても良いように設けられた決闘の場ーにおいても、男性の闘争心、勝利への欲求というものが背後に潜んでいるのではないだろうか。

それがまさに、本作の主人公であるサミュエルだ。ジャーナリストは、社会の悪、人々の行為に潜む悪、すなわち敵を見つけ、あげつらい、糾弾し、徹底的に排除しようとする。それは獲物をかぎつけ、目視し、狩り獲る狩猟行為にも似ている。そしてジャーナリストは、自己の正義を確認し、絶対的な勝利に浸ろうとする。

私はジャーナリストという職業の背後にこのような虚栄心や、自身が注目を浴びたい気持ちが潜んでいたとしても、それを断罪しようとしているのではない。自己の名誉心を隠して正義を建前に他者を狩ることに興奮していたとしても、それが偽善だと指摘してやめさせようとしているのではない。基本的にジャーナリストの仕事は、その結果によって評価されるべきであると考えているから。そして多くの真摯なジャーナリストは己をリスクに晒しているはずだからだ。

しかしながら、他者を傷つけようという目的でいると、自らまでをも傷つけてしまうことがある。それは、他者に対して放った罵詈雑言が、まるで他者から同じことを言われたかのようにして自分の尊厳までをも毀損してしまうのに似ている。結果として他者の悪を狩る行為は、同様に自らにまでも傷を負わせてしまい、痛み分けのように終わってしまうことがある。

作中でサミュエル が負っている精神的な病は、このような経緯も一因となって生じた者なのではないか、と考えている。

問題はそのような傷を抱えている時に、他者とどう相対すべきか、ということだ。自ら進んで追い求めた獲物を狩る過程で、自ら傷を追う。精神的な傷を負った者は、他者に対して攻撃的になる。その攻撃性こそが男に獲物を追わせているのだから、これは循環論法的とも、「鶏と卵」問題的であるとも言えるが。

こうして、心に傷を負った者が、必要なサポートを受けられず、むしろサポートを求めるべき相手にもその攻撃性を発揮してしまったり、自閉的になって、身近な他者との心理的距離を遠ざけてしまうということになるのではないか。それが本作における、サミュエルとアナとの過去に起こったことではないのか。(最近ではよく「支援が必要な人間は、支援したくなる見た目をしていない」といった趣旨の言説をインターネット上で見かけることがある)

このような仮説(?)のもとで、引き続きゲーム"TWIN MIRROR"を咀嚼していきたいと思うのだ。