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映画・ゲーム考察

ゲーム『TWIN MIRROR』のなかで描かれている男性性について

「敵を倒し、注目を集め、喝采に浸る」というのは、おそらく男性的な憧憬なのだろう。

その憧憬は、幼少期であれば「ごっこ遊び」「人形遊び」「ヒーロー作品(フィクション)の消費」など、身体的で原始的な、直接のマッチョイズムとして表象される。

けれども第二次性徴を経て、男性が身体的な成熟を迎える時、その筋肉とパワーを現実に行使する相手(=敵)が必ずしも存在するとは限らない。また、現実は妄想とは異なり、打ち勝てる相手ばかりだとは限らない。

闘争に飢えた男性を都合よく満足させる娯楽として、フィクションや、政治家が民衆(男性?)の不満を解消する手札として用意された戦争、スポーツ競技・観戦などが機能する場合もある(あるいは酒やタバコ、ギャンブルや女遊びも?)が、男性の有する闘争への飢餓(もはやこの時点では加虐性だ)が必ずしも満たされるとは限らない。その結果が、女性に対する粗雑な扱いだとか、部下に対する暴言・暴力、子供に対する支配といった、自己よりも弱い立場にある者(社会的・権力的に)、明かに弱い者(肉体的・身体的に)に対するハラスメントとして表れてしまうこともある。

なお、ここで必ずしも全ての男性がマッチョイズムを志向し、闘争と勝利への欲求不満を抱えているわけではないことは強調しておきたいし、また、ハラスメントを行う人間が全て男性だけであるわけでもないことを強調しておきたい。さらには、家庭環境や豊さ(金銭的・時間的・精神的な)も、男性の闘争心を和らげ、知的・芸術的なこと、人間的なコミュニケーションへと向かわせる一助となるであろうことについても釘を刺しておきたい。

さて、主として「力」、すなわち肉体的・身体的なかたちで現れやすい男性の闘争心(幼い頃から抱く憧憬に基づく)であるが、言論という、政治的・社会的に勝敗を決する舞台ーつまり生命までもは失わなくても良いように設けられた決闘の場ーにおいても、男性の闘争心、勝利への欲求というものが背後に潜んでいるのではないだろうか。

それがまさに、本作の主人公であるサミュエルだ。ジャーナリストは、社会の悪、人々の行為に潜む悪、すなわち敵を見つけ、あげつらい、糾弾し、徹底的に排除しようとする。それは獲物をかぎつけ、目視し、狩り獲る狩猟行為にも似ている。そしてジャーナリストは、自己の正義を確認し、絶対的な勝利に浸ろうとする。

私はジャーナリストという職業の背後にこのような虚栄心や、自身が注目を浴びたい気持ちが潜んでいたとしても、それを断罪しようとしているのではない。自己の名誉心を隠して正義を建前に他者を狩ることに興奮していたとしても、それが偽善だと指摘してやめさせようとしているのではない。基本的にジャーナリストの仕事は、その結果によって評価されるべきであると考えているから。そして多くの真摯なジャーナリストは己をリスクに晒しているはずだからだ。

しかしながら、他者を傷つけようという目的でいると、自らまでをも傷つけてしまうことがある。それは、他者に対して放った罵詈雑言が、まるで他者から同じことを言われたかのようにして自分の尊厳までをも毀損してしまうのに似ている。結果として他者の悪を狩る行為は、同様に自らにまでも傷を負わせてしまい、痛み分けのように終わってしまうことがある。

作中でサミュエル が負っている精神的な病は、このような経緯も一因となって生じた者なのではないか、と考えている。

問題はそのような傷を抱えている時に、他者とどう相対すべきか、ということだ。自ら進んで追い求めた獲物を狩る過程で、自ら傷を追う。精神的な傷を負った者は、他者に対して攻撃的になる。その攻撃性こそが男に獲物を追わせているのだから、これは循環論法的とも、「鶏と卵」問題的であるとも言えるが。

こうして、心に傷を負った者が、必要なサポートを受けられず、むしろサポートを求めるべき相手にもその攻撃性を発揮してしまったり、自閉的になって、身近な他者との心理的距離を遠ざけてしまうということになるのではないか。それが本作における、サミュエルとアナとの過去に起こったことではないのか。(最近ではよく「支援が必要な人間は、支援したくなる見た目をしていない」といった趣旨の言説をインターネット上で見かけることがある)

このような仮説(?)のもとで、引き続きゲーム"TWIN MIRROR"を咀嚼していきたいと思うのだ。