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映画・ゲーム考察

映画『ゴッドファーザー:最終章』あらすじと、第1作目・2作目と比較した評価の低さの理由

あらすじ

映画冒頭時点で、マイケルはファミリービジネスの完全合法化を達成している。それは自身にとっても長年の悲願であり、元妻ケイの頼みでもあったが、それを達成した時にはすでに、妻からの愛情は失われ、息子からの信頼も失って、2人はマイケルを離れてしまっていた。

マイケルはローマ・カトリック教会バチカン法王庁)とのつながりを強め、宗教的権威による後押しと承認を得ることによって、自らの社会的な正統性を補完しようとする。マフィアと蔑まれたイタリア人移民としてのルーツを持つ自分たちファミリーにとって、それはアメリカ社会において安定した生活を送り、溶け込む上での悲願であった。(気質として生きることは、マイケルの父ヴィトーが息子に願ったことでもあった。)けれどもそれは所詮金で買った承認にすぎない。

マイケルの得た権力はもはや宗教的権威をも凌ぎつつあるが、バチカン教皇庁を我がものとして操り企業買収を進めようという策略はヨーロッパ側の人間たちによって裏切られ(マイケルは合法化を達成しようとしているが、野心を捨てたわけではない)、アメリカ国内における合法化を進めたことによって過去につながりのあったマフィアたちからの不満が噴出して新たな抗争の火種となってしまう。※

こうしてマイケルは、神に誓ったはずの合法化を捨て去り、再び犯罪に手を染めてしまうことになるが、そこにはあまりにも大きすぎる代償があった。

 

 

1・2作目に比較した評価の低さの理由

① スケールの壮大さが空虚になってしまったこと:前作の時点でアメリカ社会のトップにまで上り詰めているマイケルは、ついに世界を舞台に移し、ヨーロッパ、そして神までをも相手どる。しかしそのようなスケールのデカさは物語のリアリティをそこね、かつ、敵対するアルトベロやザザといったマフィアの矮小さや、ヨーロッパ企業・教皇庁の人間たちの親しみのなさが、スケールの壮大さに釣り合っていなかったことで、物語に不足が生じていたこと。

すでにマイケルは全てを究めきった存在であり、何かを失っても怖くない。もっとも極端なものしか、失われるものとして残っていない。

② マイケルの次の世代の若者たちの演技。そしてあくまでマイケルが主役としてのポジションに留まり続けたこと:本作はマイケルのストーリーでもあり、彼の甥であるヴィンセントを、第1作目におけるマイケルのポジションと同じく次世代のボスとして出世させる物語であるが、ヴィンセントの「圧力」が不足してやや小物に見える感(しかも1作目においてタブーとされたソニーの喧嘩っ早さを発揮する人物である。マイケルは彼を教育しようとしているが、トップの人格としては終始不足している感が否めないまま物語は終わりを迎えており、「世代交代」をもう1つのストーリーとして織り込むのは成功しているとは言えない)

1作目においてはヴィトーが弱っているところでマイケルが正義感と行動力を発揮するので、彼のボス(=主役)としてのパワーの獲得に説得力が増すが、本作においてはヴィンセントが正義感を発揮していない。マイケル自身が権威(=悪者)と化してしまっている点や、宗教的権威すらもマイケルと癒着してしまっている点が難点になっているからだと思われる。

ソフィア・コッポラのふわふわした演技と、アンディ・ガルシアの終始ニヤついた演技も問題含みだ。(演出や演技は監督側の意図を反映したものなので、演技指導する側に問題があったのかも知れないが)

ソフィアの出演は、コッポラの親心の表れであり、マイケルに自身を重ねながらの製作だったのだろう。

 

あとは…1・2作目のように、始終、映画を彩った音楽と哀愁の不足。終盤のオペラシーンを念頭において、出し渋ったのだろうか。

 

 

1作目・2作目のファンであればあるほど楽しめる設定や、人生経験を重ねるほどに解像度と面白さの増す内容は、さすがである。チョコブラウンのリッチな画面構成。終盤に向けて高まる緊張感と、オペラ観劇にサスペンスを重ねる演出は圧巻。

 

 

※いちおう、「敵が先にこちらの命を危険に晒してきたので、マイケルが行ったことは自己防衛/やらなければやられるから」という名目が成立するように物語が作ってある