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映画・ゲーム考察

映画『PERFECT DAYS』論評

映画『PERFECT DAYS』のなかで、数少ない心残りと言えば、あまりにも美観に配慮した公衆便所と、優れた機能を持つ日本製トイレの登場する場面とで、「日本、美しいでしょ」「日本、すごいでしょ」と言う制作者側のプライドが露出してしまうことにより、他者の目線を介在させぬ主人公の精神的境地(心の平穏)への肯定的な視点に立って描かれている序盤・前半部分(第1日目)に、不純物が混ざり込んでしまっていることだ。

主人公はいっさいのプライドを放棄することによって平穏な精神を獲得するに至った人物であろう。そしてこの映画は、彼のルーティンを描写する第1日目において、彼を批判するのではなく、彼に同調し、彼と同じ目線で、彼を肯定的に描いていたはずだ。そして観客もまた彼と同調することによってその平穏を分け与えられ、彼の休日にかけてまでの物語の設定・導入部分においてたっぷりと、平穏な日常をプライドなく愉しむことの可能性に目を啓かされる。ところが、作中に登場する公衆トイレは、あまりにも美しいスポットばかりが意図的に選定されているので、そこに観客は、主人公の生活から排除されているはずのプライドを敏感に嗅ぎ取る。そこに違和感が発生する。

 

劇中に登場する数々の公衆便所は、エンドロールにクレジットされている気鋭の建築家・デザイナー・ランドスケープ設計者たちの作品であろう。「これら公衆便所の選定に、日本企業の意向が反映されていそうだ」という印象は、続けてローソンやユニクロといった、日本を代表する大企業のロゴが表示されることによって強まる。

この映画の制作に協賛している日本企業が、名前を売る機会を逃さず、競合企業との競争に打ち勝ち、自身の縄張りを確固たるものにしようと言う意図を少しでも見せる隙があるので、禅の境地にも似た、あるいはかつて「幸福度世界1位」と謳われたブータン王国が目指したような幸せを体現した存在である主人公への肯定的な視点を持つ本作もまた、ほかの数多の映画作品と同じように、その商業性・商業的性質からは逃れることができないのだと言うことを、鑑賞者に思い出させてしまう。

もしかしたら、作品に登場するあまりに美しい公衆便所の数々は、決して「日本のトイレの凄さを世界にアピールしよう」(あわよくば外国人観光客の増加に貢献しよう)と言う日本人的な意図に基づくものではなく、映画に関わったヴェンダース監督ら、海外のクリエイターたちの純粋な興味や知的好奇心に基づくものであるのかもしれないし、日本企業の資本の集積の結晶としてデザインされた公衆トイレすらも資本主義経済の象徴として描き、それら便所の清掃を担当するブルーカラー労働者の存在を知らしめると言う意図が隠されており、出資者の日本企業も製作者の意図に気づかぬままに宣伝になると喜んでいるのだ、と言う見方もできる。

しかし、これらトイレすらも美しく、精神の統一をもたらし、禅の境地に導くような美的な場所として描かれていたし、登場人物の1人である黒人女性は、トイレの技術に喜んでいた。どうやら本作を制作した作家たちにとって、これら「美しすぎる公衆便所」は、「すごいでしょ」とひけらかされているにもかかわらず、「立派さ」「すごさ」「強さ」「成功」を求めない日々を送っている主人公の精神的境地とシームレスにつながっているようなのである。

 

(たしかに日本のトイレは、世界的に見ても衛生的で清潔な、しかも無料で利用できる公共インフラであるという点が特異であり、かつ、その維持にあたる清掃員は尊敬に値する存在なのかも知れないが、実際には古くて汚いトイレもたくさんあり、本作では美しく新しい、デザイナーズ公衆便所のようなものか、あるいは機能的にすぐれた便所だけを選定して取り上げている)※

 

禅の境地で生活し、フィルムカメラにカセットテープ、そして紙の本といったアナログを志向する彼の生活に、異質物として乱入する女性たち。1人は、主人公の同僚の彼女、2人目は彼の姪。スマホSNS・インターネットなどデジタルネイティブとして生まれた2人の若者は、デジタル機器で埋め尽くされた時代におけるアナログブームの後押しもあって、あるいは純粋な好奇心や趣味嗜好に則って、主人公の趣味を肯定する。けれども彼女らは作り手が紛れ込ませたのだ。金髪の若者は、主人公に「趣味がいいね」とご褒美のキスを与えるし、彼の姪は、初めは不躾な若者として登場しながら、いっさいの葛藤なく、ものすごいスピードで主人公の趣きを解して行動を共にする。彼とトイレ清掃業を共にまでする。つまり、本作のターゲット層である定年直前〜定年を迎えて少しした男性たちが、「自分の後継者がいた」と言う安心感を持つようにしたいのだ。禅の境地で心の平穏を手にしてなお、他者からの肯定を求め、同類を見つけて安心し、後継者を得たがる。主人公がそう感じているのか、それとも観客を満足させるための演出か。

けれども主人公の心を揺らがせる最大の人物たる、3人目の女性、ママは主人公に安易な肯定を与えない。ここにて「人生悲喜交交」といったありきたりな感想をもたらしながら映画は丸く収まるとも言えるし、また、やはり主人公も聖人君子とは言えず、些細なことで、彼の中に眠る最大の欲望を呼び覚まされ、彼がドロップアウトしたはずの世俗的な成功(仏教が最も「離れろ」と教えるもの)への欲の残り火の存在を感じさせる。商業主義の呼び声から遠く離れたところで成立する、彼の禁欲的な生活にも、僧侶や聖職者と同様に、欲との戦いが発生し得るようだ。

 

ただしこの映画は、禁欲せよと説いているのではない。成功や、「他者の目に映えたい」気持ちと無縁の場所で成立する魂の平穏と幸福に浸ることが結果的に欲望から我々を遠ざけてくれる可能性を提示してくれる。(そして欲、期待はしばしば心をかき乱す)

 

出世欲に満ち、成功することを目標にする人々にとって、ブルーカラーの、特にトイレ清掃員は、「存在しない」ものであり、それになることなどあり得ない。

けれどこの映画は、心の平穏に満ち満ちて文化的な暮らしを送る清貧な男性に優しい眼差しを送っている。それは社会的成功を目指して日々心を掻き乱される人生に対するカウンターとして成立している。静かなブームであるアナログ志向との相性が良く、監督の趣味嗜好にも合致しそうだ。けれどもこの映画が肯定している価値観は、悪用される危険性もある。その点については、ひとつ別の記事で触れておいた。

 

 

※それに主人公もブルーカラー労働者の実像をそのまま描いているというよりも、美化されているが、それは彼の生い立ちに起因しているようだけれども、それがかえって現代社会の人々が持つ価値観に対するカウンターとして成立する。

 

※好意的に捉えるなれば、作為的に選出されたあれらの美しい公衆トイレこそ、主人公にとってのプライドなのだ、とも言える。

 

※主人公がプライドを放棄するに至ったのは、競争に敗北したゆえの消極的な結果なのか、はたまた積極的に、ポジティブな理由から来たものなのかは不明。