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映画・ゲーム考察

字幕翻訳をしてみた

ゲームの英語字幕を日本語へ翻訳する作業は、概ね楽しいものだった。

時には「超訳」(跳躍!?)も交えた。

特に「超訳」の快感は、「演技/演劇の楽しさとは、こういうものなのではないか」と思わせるものだった。

 

演技は、表情や身振り・手振りといった身体表現をも含む、身体的なパフォーマンスだ。

演者の容姿が、美しかったり、個性的であったりすると、観客は感情移入しやすいので、演者の表情や身体表現が真似されやすく、結果として「共感」されやすい。その蓄積がストーリーを生む。

専ら言語性優位の自分には、身体パフォーマンスは向かない。

どちらかと言えば朗読、次に声優のほうが「言語性高め」の演技に近いが、声優は声自体が(素材が)売り物であったりするし、朗読よりもその奥に興味がある。

 

翻訳が楽しくないのは、未知の語彙に直面したり、日本語にはない概念/観念を訳出するさいだが、こちらはインターネットの力に頼り、借用すればなんとかなる。

しかしそれでもいくつかの文は訳出困難と判断し、視聴者の判断に委ねることにした。

もちろん建前として、「今後も自らの開始した翻訳作業にこだわり、未訳箇所についても訳出を続け、いつかは完全に/完成させたい」という野望はある。

しかし無理はしないことだ。やることはたくさんある。成果が出ないこともあるので、こだわりすぎてもよくない。

 

演技は、他者のストーリー・他者の台詞を借りて、自己/自我を表出させるもののようだという結論へと、個人的には到達している。

演技は公共の場に、普段は抑圧されている自我を表出させても良いという機会を与えられた特別な人間たちのためのものだ。

それはそう、脚本家や作家のイメージの投影なのだから。セリフ、小説、物語というものは。

 

和訳の精度としては、80%くらいの正確性があればよいと心がけた。

厳密で精確な和訳を細部まで心がけようとは考えなかった。

これは、「1次資料の複製足らん」「より原典に近い存在たらん」とするであろう学術書の翻訳とは種類が異なるから。映画/ゲーム字幕の性質ゆえでもある。(それに大学入試試験でもない)

 

あまり字幕が「精確」で、結果として難解になり、プレイヤーが頭を捻って考え込んでしまい、ゲームの進行が止まるようなムービーを提供してもいけない。

また、言語の違いと思考系統の違いといった哲学的な話題についても考えないようにした。

もちろん英語話者文化と日本語話者文化のどうしようもない差異が露出する場面はあれど、できる限り、日本人的な感覚で(つまり無理に異文化に合わせようと背伸びをしなくても、椅子に座ったまま/ベッドに横たわったままで)理解できるような、高級ソファのような翻訳になればよいと心がけた。

もちろん「和訳を用いて、英語話者の思考そのものに迫りたい」「英語そのもので思考しているような和訳をしたい」「初めから英語で思考しているような感覚で和訳したい」というのであればそれを妨げない。(試みたい人は試みればよい)

そもそも人間が言語で思考しているのかどうか、また言語優位/言語非優位のパーソナリティといった差もあるけれども、特にレベルの高い大学入試においては、そのような日本語話者と英語話者との思考の差異に迫るような問題も散見されるような気がする。

 

 

 

あとで動画を公開します。